Duration 17:21

2023.08.15 man なる宿命

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Published 15 Aug 2023

ヨーガに非ざるヴィヨーガ vi-yoga ではないヨーガ修行においては、ヨーガスートラ yogasūtra やラマナマハルシ Ramaṇa Maharṣi の教えに取り組めば取り組むほど、何度も壁にぶつかり、あるレベルまで進歩するとそれ以上は進歩しなくなったり、そういう行き詰まりに辟易して後退し始め、己の修行をないがしろにして教えることや団体組織の拡充などに堕してしまう人たちが多い。そういう場合には、生活を豊かにするのではなく極限まで清貧に徹し、物でも行なうべき実修でも捨てられるものをできる限り捨てるようにするのが良い。人が何をどうしようが、私の 'my' 身も心も実在 sat ならぬ非実在 a-sat の虚出没でしかないのだから、私 ‘I' という思い ego も我が世界 'my' world も個的生命 jīva の幻影にすぎない。真理の覚智現成 Self-Realization (ātma-sākṣātkāra)・真実在安住 Self-abidance (ātma-niṣṭhā आत्मनिष्ठा) は獲得しようと思って達成されるのではなく、真実在 sat (Self) 以外のものを捨離することによってのみ達成される。 [Q & A] Q: 「気づきをもって」というのは、湧いた想念に気づける状態(コンディション)で行為するという事ですか?前回相談した想念の現れる隙を埋めるやり方は過緊張という事ですね? A: 「気づく」のはアタマでの thinking に気づくことで、行為するかしないか doing / no doing は、アタマの thinking / no thinking の気づきを無視しているレベルでは単なる習性従属で、それは私の 'my' 習気(ヴァーサナー vāsanā वासना = 記憶に染み込んだ習癖)の繰り返しに過ぎず、修行にはなりません。それは単なる<その日暮らし>でしかありません。ヨ(ー)ガ界の大多数のインストラクターが、私の 'my' thinking / no thinking の気づきを無視して教師役で暮らしているのは、<湧いた想念に気づけない状態(コンディション)で行為するその日暮らし>だからですが、そういう事がアタマをかすめることさえない人たちのほうが多いでしょう。<想念の現れる隙を埋めるやり方は過緊張という事>ではありません。thinking / no thinking の間隙は、ありふれた言い方で説明するなら何十分の一秒のようなもので、それに気づく人は稀です。その稀を稀でなくしようとすると<過緊張>に陥り、いわゆる「禅病」になり、たいていはノイローゼになりますが、そこまで行くほど修行する人も稀です。ヨーガ=自分意識の発見と解消(破我)の修行に取り組むのは、精神病を病むかそれを乗り越えて求道者になれるかの二者択一を覚悟しなければいけないことです。 Q: 実際、これは生きてるのが辛くなる程疲れます。 A: 真理の覚智現成 Self-Realization (ātma-sākṣātkāra) を目指しての修行は、そういうものです。ヨ(ー)ガをして気持ちがいいなんていうのは、気持ち悪いです! [Q & A]・続 Q: どうもありがとうございます。 精神病になる覚悟はできています。 稀でも私はただマハルシの示した道を正確に歩みたいのです。 真我探求は精妙な道なのでニュアンスを取り違えたら、かえって自我性を強めたり 暗性を強める結果になってしまう気がします。 仏教徒は取り違えたと思っています。 やはり気づき主体そのものであり続けることが重要で 「行為に専念するかしないか、意識的に行為するかしないか」ではなく 頭をかすめた想念に気づけるかどうかが重要なのですね。 極論して言えば、仕事が ・遅くても ・ちゃらんぽらんでも 想念に気づいていれば ジュニャーナ・ヨーガになるのですね。 気づき体制、気づけるコンディションを維持してみます。 もし間違っていたらご指摘ください。 A: その覚悟で歩んでください。 thinking の内容が変わる瞬間の thinking に気づく早技を目指すと、私の 'my' 過去の生き様を理解できるようになりますし、no thinking の保持にも資します。 [Q & A]・続々 相談に乗っていただきありがとうございました。 どこにも逃げ場が無くなったような言い表せない非常に辛い状態になって何度も挫折しましたが、やり方としては間違ってないという励みになりました。またひとりでやってみようと思います。マハルシ自身、「永遠の孤独」だと境地を説明していますので、今回いただいた回答やマハルシの残した言葉を励みに頑張ります。 ⚫︎「どこにも逃げ場が無い」から「カミソリの刃」渡りのようなアートマヴィチャーラ ātma-vicāra(思いの出所の探究)にチャレンジできる幸運に恵まれるのですね。「永遠の孤独」=永遠至福 ānanda (bliss) で、ラマナマハルシ Ramaṇa Maharṣi はハイスクール2年時の真理の覚智現成 Self-Realization (ātma-sākṣātkāra) 以降、ハート hṛdaya हृदय (セルフの居所)覚智から一瞬の離脱も無かったと言っていた通りです。

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